『わたしのまま、生きる』

心めぐり日和

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あの時のことを、今でも忘れられない。

大事な何かを差し出すのは、迷いがなかった。相手が必要としているなら、私にできることは全部やろう――そう思っていた。

あれは物じゃない。お金でもない。私の時間や心を分けて渡したものだった。

頼まれた瞬間、迷いはなかった。疲れていたけれど、「大丈夫、これぐらい平気」と笑って渡した。

それは相手のためというより、人のために何かできるという命の底からの喜びだった。

けれど――。
その人は受け取った瞬間、顔をしかめた。

「なんか違うな」

そう言って、まるでゴミを捨てるみたいに、私の差し出したものを投げ捨てた。そこにあったのは、感謝でも、残念そうな色でもなく、わがままな恩知らずの一面だった。

その場では笑った。何でもないふりをした。でも、家に帰る電車の窓に映る自分の顔は、少し老けたように見えた。何かが、心の奥で音を立てて崩れた。

それからしばらく、私は人に何かを渡すことが怖くなった。
お願いされても、「またも探ってみるのだろうか。」差し出す前に、相手の顔色を探る癖がついた。自分の中の温かい部分に、鍵をかけるようになった。

でも、時間が経って気づいた。
あの瞬間、傷ついたのは「善意」ではなく、「人と関わる中での信頼」だったのかもしれない。拒絶されるとわかっていても差し出せるほど、私は強くはなかった。

本当にただ与えるだけなら、相手の反応は関係ないはずだ――頭ではそう思っても、心はなかなか追いつかない。

あの日から、私は「全部差し出す」ことはしなくなった。
代わりに、「できることの一部だけを差し出す」ようになった。残りは自分の中に残しておく。そうすることで、拒絶されても、全部が壊れることはなくなった。

それは弱くなったわけじゃない。自分を守るために、与え方を変えただけだ。

今でも時々、あの時の投げ捨てられた音が、胸の奥で響くことがある。

でも、その響きはもう私を止めない。ただ、「与えることは、美しいだけじゃない」という事実を思い出させる合図になっている。

そして、何よりも恐ろしいのは――あの出来事が、相手ではなく私自身を変えてしまったということだ。

でも、今になって気づく。
わがままな恩知らずの一面は、わたしの中にもあることを。

あらためて決意する。
わたしは変わりたくない。わたしのまま、あの富士のように。

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キーワード例:#人生 #心を整える

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